妻が夜中のキャンプ場で「絶対ついてきて」と震えていた夜
結婚3年目、夫婦でオートキャンプに行った時の話。夜中の2時、妻(29)に叩き起こされた。「トイレ行きたい。ついてきて」。パーカーにレギンス姿、寝ぼけ眼だったのが一瞬で強張った顔に変わっていた。テントの外は虫の声だけが響く静けさで、月明かりが薄く地面を照らしていた。
キャンプ場のトイレ棟までは歩いて5分、街灯はほぼない。懐中電灯を持って二人で歩き出したが、100メートルほど進んだところで妻の歩みが止まった。片手を下腹に当て、もう片方の手で私の腕を強く掴んでいた。
「ねえ、ごめん。間に合わないかも」
聞けば、我慢していたのは小ではなく大の方で、しかも夕食のカレーと冷えが腹に来ていたらしい。トイレ棟まであと4分。妻の顔は懐中電灯の逆光でも分かるほど強張っていた。膝を擦り合わせ、下腹を片手で押さえている。時折「うっ」と小さく呻いては、その場に立ち止まった。
「その辺でしなよ」と言うと、妻は「無理! 絶対無理!」と言った15秒後に「……ティッシュ持ってる?」と言った。人間の尊厳の閾値は、腹痛の前ではあっけない。声が徐々に小さく、切羽詰まったものに変わっていく。息遣いが荒くなり、その場でしゃがみ込むようにして体を縮めた。
私は懐中電灯を消して見張りに立った。背後の闇から聞こえてくる音と、絞り出すような「見ないでね、絶対見ないでね」という声。心臓の音がやけに大きく聞こえた。虫の声すら遠のいて感じるほど、その瞬間だけ世界が静かになった気がした。妻の息遣いが少しずつ落ち着いていくのを、暗闇の中で聞いていた。終わった後の彼女の「ありがとう、ごめんね」という声は、今にも消え入りそうなくらい小さかった。帰り道、妻は無言だったが、テントに入る直前に「今日のこと、墓まで持っていって」と言った。
すまない。墓の代わりにインターネットに埋葬させてもらう。あの夜の星空と、震える妻の声だけは忘れられない。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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