排泄物語

横丁の路地裏で見た老婦人の限界という話

投稿者: 小料理屋の常連B1分で読めます閲覧 1,6484.1(12件)

私の通う小料理屋は、駅裏の細い横丁の奥にある。赤提灯が三つ、傾いた電柱がひとつ、あとは飲み屋の裏口ばかりという路地である。先週の金曜、店を出たのが十一時前であったか。夜風はすでに秋めいて、酔い覚ましにはちょうどよい冷たさであった。

角を曲がったところで、人影に気付いた。身なりのよい七十がらみの老婦人である。品のよい紺の上着に、きちんと結い上げた白髪、手には小ぶりの上等そうな鞄。どこぞの会合か、観劇の帰りといった風情の、およそ深夜の路地裏に似合わぬ人であった。その人が、電柱の陰で前かがみになっている。

最初は具合でも悪いのかと思い、声をかけかけた。が、様子が違う。上着の裾を握りしめ、膝を固く合わせ、小刻みに震えている。呼吸が浅い。そして次の瞬間、足元に湯気の立つ水たまりが、ゆっくりと、しかし止めようもなく広がっていくのを見て、事情を察したのである。押し殺した、吐息とも嗚咽ともつかぬ声が、静かな路地に落ちた。私は棒立ちになった。見てはならぬと分かっているのに、足が動かなかった。

齢を取ると、ああいうものは待ったが利かない。駅の手洗いは改札の中、横丁の公衆便所は五年前に撤去された。おそらく駅からの帰り道、あと少しのところで限界が来たのであろう。本人も分かっているのだろう、こちらに気付くと「面目ない」と小さく頭を下げた。声にならぬほど掠れた声であった。私は何も見なかった顔で通り過ぎた。それが礼儀と云うものである。

通り過ぎてから、自分がずっと息を止めていたことに気付いた。心の臓がうるさかった。あの品のよい人の、あの崩れる寸前の横顔が、家に帰って床に就いてからも瞼の裏に居座った。人の尊厳の崩れる瞬間とは、なぜああも目に焼き付くのか。爺の因果な性分である。

翌週、店の近くで見かけたが、互いに何も言わなかった。ただ、彼女が外出を早めに切り上げて帰るようになったのは、意外でも何でもない。年寄りには酷な街になった。以上、爺の繰り言と思って読み流していただきたい。

― この話は、これにて ―

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掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。

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