「お手洗い貸して」と駆け込んできたマダムが3歩届かなかった
平日の午後3時、店が一番暇な時間帯。客はゼロ、私はカウンターで珈琲豆の在庫表をつけていた。そこへドアベルが激しく鳴った。
駆け込んできたのは50代くらいのマダム。上等そうな絹のスカーフ、仕立てのいいワンピース、美容室帰りらしき整った髪。近所の奥様だろう、見るからに上品な人が、しかし顔だけは切迫していた。額に汗が滲み、「すみません、お手洗いだけ…!」と声が裏返っていた。両膝がぴったり合わさったまま離れない、あの立ち方だった。
うちはトイレだけの利用もどうぞという主義なので「奥です、どうぞ」と即答した。彼女は小刻みな歩幅で店内を横切った。ヒールの音がタタタタと不規則に鳴った。あと5歩、4歩。私は在庫表に目を戻しかけて、その音が止まったことに気付いた。
彼女はトイレのドアまであと3歩というところで立ち止まっていた。立ち止まって、動かなくなった。片手が壁に伸び、もう片手がスカートの布地を強く握った。肩が小さく震えた。
そして、スカートの下から、静かな水音が床に落ち始めた。
私は見なかったふりをしてミルに豆を入れ、挽いた。豆を挽く音は偉大だ。大抵の音をかき消してくれる。だが手動ミルのハンドルを回す私の手は、自分でも分かるくらい速くなっていた。音は長く続いた。豆一回分では足りず、二回分挽いた。挽く必要のない豆を。
水音が止み、少しの静寂のあと、彼女は残りの3歩を歩いてトイレに入った。あの3歩の、背筋だけは伸ばした歩き方を、私は多分忘れない。
15分後、身なりを整えて出てきた彼女は、モップを貸してほしいと言い、自分で床を拭いた。止めたが聞かなかった。それからカウンターに座り、ブレンドを一杯注文して、無言で、時間をかけて飲んで、帰った。会計のとき千円札を出して「お釣りは結構です」と。420円のブレンドに千円。粗相の口止め料として高いのか安いのか、いまだに分からない。
床は私があとで塩素消毒した。挽きすぎた珈琲豆は私が飲んだ。妙に苦かった。マダム、また来ていいのよ。今度はコーヒーだけ飲みに。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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