うちの店のトイレを40分占拠したOLの話
うちは駅から3分の小さな喫茶店。カウンター6席、テーブル3つ、トイレはひとつしかない。マスターは私。観察が趣味だ。
先週の火曜の昼、ランチ後の珈琲を出し終えた13時半ごろ。常連のOLさん(推定20代後半、いつも紺のジャケットにベージュのパンプス、頼むのはブレンドとナポリタン)がトイレに立った。いつもと違ったのは、立ち上がり方だ。椅子を引く音が急で、歩幅が狭く、早い。カウンターの中から見ていて、ん、と思った。
それから40分、出てこなかった。
最初の10分は気にしなかった。20分で他の客がひとり、トイレ前まで行って引き返してきた。30分でふたり目が引き返し、店内に微妙な空気が流れ始めた。私は焦った。倒れていたらどうする。声をかけるべきか。だが中から、かすかに、なんというか、闘いの音がしていた。長い長い闘いの音が。時々止み、また始まり、また止む。潮の満ち引きのようだった。生きている。生きて闘っている。ならば声をかけるのは無粋というものだ。
私にできるのは、BGMのジャズの音量を2段階上げることと、豆を挽く必要もないのに挽くことだけだった。ミルの音は偉大だ。
43分後、彼女は何事もなかった顔で席に戻り、冷めきったコーヒーを一気に飲み干した。その横顔には、長い戦役を終えた者だけが持つ静かな疲労と達成感があった。目元が少し赤かったのは、見なかったことにした。会計のとき、彼女はレジで「お手洗い、お借りしました」と深々一礼して帰っていった。あの一礼の角度を、私は多分ずっと忘れない。90度だった。
トイレを確認すると、きちんと清潔に使われていた。ただ、芳香剤だけが完敗していた。ラベンダーの香りは何かの下に沈んでいた。私は窓を全開にし、次の客が来る前に線香を焚いた。喫茶店に線香、悪くない。骨董品の趣きが出た。
彼女は今も週3で来る。ナポリタンも頼む。互いにあの日の話はしない。それが喫茶店のマスターと客の距離感というものだ。ただ、あの日以来、トイレには消臭スプレーを2本置いている。彼女のためではない。次の闘う誰かのためにだ。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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