カラオケ熱唱中に限界を越えた常連さんの、20年ぶりの涙の記録
笑っちゃいけない話なんだけどね、これはうちの店で実際にあった事件なのよ。常連のKさん(仮名・61歳)、演歌を歌わせたら右に出る者がいないの。その夜もマイク握って十八番を熱唱してたのよねぇ。渾身の力で歌ってる姿、毎回感動するくらいなのよ。でもその日のKさん、来た時からお腹の調子が悪いって言ってて、ウーロン茶しか飲んでなかったの。いつもはビール党なのに珍しいこと、って思ってたのよ。
珍しいでしょ。歌の2番のサビでね、Kさんの顔色が変わったのよ。あたし、カウンターから見てて分かったの。マイクを持つ手がふっと止まって、眉間に皺が寄って。それまで朗々と響いてた声が、急に小さく震え出したの。歌詞が舌に引っかかってるのが見えるのよ。目の端に涙が浮かんでるようにも見えた。
あ、これは来たなって。Kさんはマイクを置いて、うちのトイレに小走りで向かったんだけど、うちの店のトイレって狭い廊下の突き当たりで、ドアの建て付けが悪いのよ。ドアノブもちょっと固いし。焦ったKさん、ドアノブをガチャガチャやってる数秒の間に、間に合わなかったのよねぇ…。ズボンの後ろに、はっきりと。廊下に響いた小さな呻き声を、今でも覚えてるわ。本人が一番分かってるから、あたしは何も言わずにおしぼり2本と、うちの旦那が置いてった部屋着のジャージを渡したの。二階の奥の部屋があるからね、そこで着替えてもらったのよ。
Kさん、20年の付き合いで初めて泣いたわよ。「ママ、恩に着る」って、震える声で。あの顔は今でも忘れられないわ。あたしも、あなたの屈辱の瞬間を見てしまったことを、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったのよ。
それから3ヶ月来なかったけど、今はまた毎週来てくれてるわ。あの夜のことはあたしとKさんだけの秘密。あ、ここに書いちゃったけど、仮名だからいいのよねぇ。今でもウーロン茶ですかって聞く前に、Kさんは「今日はビールで」って言うようになったのよ。その言葉を聞くたび、あたしはあの夜のことを思い出しながら、いつも通りビール中を注ぐのよ。
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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