閉館5分前の自習室で見た浪人生の限界疾走
予備校で事務職員をしております。閉館時刻の22時が近づきますと、自習室の見回りが私の仕事でございます。
昨年の11月、模試前で自集室が満席だった夜のことでございました。閉館のアナウンスを流して廊下を歩いておりますと、一番奥の席から浪人生の男の子(もちろん18歳以上でございます、痩せ型で眼鏡をかけた真面目そうな子でございました)が突然立ち上がり、腹を押さえて猛然と走ってまいりました。参考書が数冊、机から滑り落ちる音がいたしました。顔色はすでに紙のように白く、脂汗が額に浮いておりました。
彼は私の横をすり抜けてトイレへ向かったのですが、あいにく男子トイレは清掃業者が入っていて使用中止。張り紙を見つめる彼の背中がぴたりと固まったのを覚えております。「うそだろ」と小さく叫び、彼は階段を3階分駆け下りていきました。私も戸締まりのため後を追う形になったのですが、駆け下りる足音が段々と乱れていくのが聞こえてまいりました。
おそらく自習室の席を立った時点で、すでに第一波は来ていたのでございましょう。彼が机に突っ伏すようにしていた時間が長かったことも、後から思い返せば予兆だったのだと思います。トイレが使えないと分かった瞬間、彼の中でより強い第二波が押し寄せたに違いございません。手すりを掴む手に力が入り、段を飛ばすように駆け下りる姿は、まさに時間との勝負でございました。
1階のトイレの手前、あと5メートルというところで彼の足が急に止まり、内股のまま動けなくなったのでございます。両手を太ももに押し当て、肩を大きく上下させながら、一歩も動けない様子でございました。数秒の静止ののち、ズボンの後ろが少し膨らんだように見えました。本人は無言のまま個室へ消え、30分ほど出てきませんでした。
翌日から彼は別の校舎に移ったと聞きました。受験生の腹は繊細でございます。あの晩、階段を駆け下りていく彼の後ろ姿と、廊下に響いた足音の焦りを、私は今でもふと思い出すことがございます。若さゆえの必死さと羞恥が入り混じったあの背中は、事務職員として数え切れないほどの学生を見送ってきた私にも、強く印象に残る光景でございました。清掃の時間割は、あの冬から見直させていただきました。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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