講師室前の廊下で人気講師がやらかしかけた夜
冬期講習の時期の話でございます。夜9時過ぎ、生徒はもうおらず、校舎には講師と職員だけが残っておりました。英語の人気講師(40代の男性で、いつも余裕たっぷりに授業をされる方でございます)が講師室から出てきて、廊下の突き当たりのトイレへ早足で向かわれたのですが、その日に限って配管工事で3階のトイレが全て使えなかったのでございます。
張り紙を見た瞬間の先生の顔を、私は今でも忘れられません。授業では絶対に見せない、崩壊寸前の表情でございました。眉間に深いしわが寄り、片手が壁を探るように伸びておりました。私はコピー機の前から、その一部始終を偶然見てしまった訳でございます。手を止めることもできず、ただ息を潜めて先生の様子を追っておりました。
先生は階段へ向かいましたが、途中で一度立ち止まり、壁に手をついて深呼吸をされておりました。肩が上下しているのが遠目にも分かり、時折小さく呻くような声も漏れ聞こえてまいりました。あの瞬間の緊張感は、こちらの心臓まで早鐘を打つほどでございました。
講師室を出た当初は、まだ余裕のある足取りでございました。おそらくその時点では第一波程度だったのでしょう。しかし張り紙を見て事態を悟った瞬間、より強い波が先生を襲ったものと推察いたします。壁に手をついて動きを止めた数秒間、先生の額には玉のような汗が浮かび、いつもの飄々とした雰囲気とは別人のようでございました。私はコピー用紙を抱えたまま、声をかけることもできず、ただその場で立ち尽くしておりました。
結局先生は2階のトイレに間に合ったようでございますが、後日談として、個室から出てきた先生と鉢合わせた同僚いわく「靴下だけ濡れていた気がする」とのこと。真相は闇の中でございました。あの日以来、先生は授業の合間に必ずトイレに行かれるようになりました。人気講師も人間でございます。普段は生徒たちの前で堂々と英語を操られる方が、あの夜だけは一人の人間として追い詰められていたお姿を、私は忘れることができません。今でも冬期講習の張り紙を見るたび、あの夜の先生の背中を思い出してしまうのは、私だけの秘密でございます。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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