雑居ビル4階のトイレが故障した夜に見たもの
うちの予備校は駅前の雑居ビルの4階と5階に入っている。トイレは各階の共用が1つずつ。11月のある夜、4階の女子トイレが詰まって使用禁止になった。張り紙には「5階をご利用ください」とだけ。ただ5階は自習室フロアで、直前期はトイレも行列になる。その事実を誰も想定していなかったのだろう。
夜9時半、私が帰ろうと非常階段(喫煙者がたまに使う外階段)のドアを開けたら、踊り場の隅に人影があった。同じ講座の女性で、30代、いつも最前列でノートを几帳面に取ってる真面目な人だった。スーツの上にコートを羽織って、いつもきっちり結んでいる髪が少し乱れていた。顔色は明らかに悪く、肩も震えてるように見えた。その光景は、私が想定していた「帰路」と全く違う風景だった。
壁に向かってしゃがんでいる姿勢で、一瞬何をしてるのか分からなくて、音で理解した。心臓が跳ねて、喉の奥が急に渇いた。見てはいけないと分かっているのに、数秒だけ動けなかった。内ももが微かに震えてるのが見えて、その震えが必死の我慢を物語ってた。
向こうは私に気づいてないふりをして、私も気づいてないふりをして階段を降りた。気まずさで4階ぶんの階段が異様に長く感じた。足音を立てないようにそっと降りた。心臓の音が頭の中で鳴り響いてた。階段を2段降りるごとに、あの女性のことが頭に浮かんだ。
翌週の摸試の自己採点会で普通に隣になったが、お互い何も言わなかった。彼女の耳が赤かった気がしたのは、寒さのせいだと思うことにした。ノートの取り方も相変わらず几帳面だった。その時私が感じたのは、彼女のそういった日常性こそが、その夜の緊急事態をより際立たせるんだということだった。
責める気はない。あの行列と故障のコンボは人を追い詰める。4階を使えない設計の不備、5階の行列の過密、そしてその全てが彼女を踊り場に追いやったんだ。ただ、非常階段のドアを開ける時は必ず音を立てようと決めた。それだけの話だ。今でも非常階段の匂いを嗅ぐと、あの夜の静止した数秒を思い出す。冬の階段の冷たさ、その隅で起こってた苦渋の決断。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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