【観測記録・春】目黒川沿い、ヒールの女性グループに起きた夜桜の悲劇
3月30日、目黒川沿いの遊歩道。曇り、気温12度。夜桜のライトアップ最終週で、川沿いの狭い歩道は一方通行の規制がかかるほどの人出であった。頭上を覆う満開の枝がライトに照らされ、川面に落ちる花びらが薄紅色の帯を作っている。
21時頃、事例発生。前方を歩いていた20代後半と思われる女性3名のグループ(全員成人、缶チューハイ持ち歩き、相当に出来上がっている)のうち1名の様子が、途中から明らかに変わっていった。最初は笑っていたのに、次第に会話への相槌が上の空になり、片手をずっとコートのポケットに突っ込んだまま下腹のあたりを軽く押さえている。歩幅も徐々に狭くなっていった。
「ねえ、ちょっとやばいかも」と彼女が漏らすと、友人が「駅まで我慢しな、あと10分」と笑いながら促す。しかし人波は一方通行の規制で流れが悪く、10分どころか20分はかかりそうな渋滞ぶりであった。彼女の顔から表情が消え、額にうっすら汗が浮かぶ。花冷えの気温だというのに、である。内もものあたりで両膝をすり合わせるような小刻みな動きが、我慢の限界が近いことを雄弁に語っていた。
人波は前にも後ろにも動かない。彼女は一度立ち止まって深く息を吸い、目を閉じて何かをやり過ごすような表情を見せた。数十メートル先に見える橋のたもとまで行けば道が広がり、脇に逸れられるかもしれない。だがその数十メートルが、今の彼女には遠い異国のように思えたことだろう。友人が背中に手を当て「もうちょっとだから」と囁くたび、彼女の呼吸は浅く速くなっていった。花冷えの夜気の中、彼女の頬だけが熱をもって上気していた。
「もう無理、ほんとに無理」――ついに彼女がそう叫んで立ち止まったのは、人波の真ん中、街灯の直下であった。友人が「駅まで我慢しな!」となおも促すも、当該個体はガードレールに掴まってその場にしゃがみ込んでしまった。周囲の通行人数十名が目撃する中、堰を切ったように、アスファルトに水たまりが広がっていく。夜桜の下、湯気がひとすじ、街灯の光にほのかに浮かび上がった。しゃがみ込んだ瞬間、それまで固く閉じられていた表情の筋肉が一気にほどけ、彼女の口から小さな吐息が漏れるのを私は聞き逃さなかった。長かった我慢の時間に比例するように、解放の余韻もまた長く尾を引いているようだった。
友人2名はコートで壁を作ろうとしたが、場所が場所だけに焼け石に水である。本人は済ませた後「あ゛ー生き返った」と満足げに立ち上がり、拍手する酔客まで現れる始末。感測者としては、羞恥心の閾値がアルコールと限界の前でどこまで下がるかの貴重な事例と言える。
念のため記すが、彼女は公道のど真ん中で自発的に始めたのであり、こちらが覗いた訳ではない。むしろ視界から逃れる方が困難であった。夜桜という華やかな舞台の裏で、成人女性の膀胱もまた季節に翻弄されているという、地味だが確かな真実を今年も記録できたことに感謝したい。
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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