【観測記録・夏】花火大会の帰り道、駅までもたなかった女性の限界
8月2日、隅田川花火大会。晴れのち薄曇り、風やや強し。打ち上げ終了直後の帰路の混雑は毎年感測しているが、今年も駅までの道は歩行速度が時速1キロを切る飽和状態であった。この「動けない群衆」こそ、限界事例の多発地帯である。火薬の匂いがまだ夜気に残り、浴衣とビジネスシャツが入り混じった群衆が、ただじりじりと駅の方角へ押し出されていく。
21時40分頃、事例発生。私の斜め前方2メートル、会社帰りにそのまま来たと思われるブラウス姿の30歳前後の女性が、明らかに様子がおかしかった。連れの女性に「ごめん、朝からずっと我慢しててビール飲んだのまずかった」と訴える声が聞こえる。コンビニはどこも入場規制、公衆トイレは100人待ち。群衆は動かない。屋台のかき氷とビールを一日中補給し続けた体は、今になって一気にその代償を求めているようであった。
彼女の呼吸が浅くなっていくのが背後からでも分かった。数分おきに小さく前かがみになっては、深呼吸をひとつして体勢を戻す。その繰り返し。連れの女性が背中をさすりながら「あと何メートル、頑張ろう」と励ますが、群衆はぴくりとも動かない。時間の感覚が引き延ばされていくようで、5分が50分にも思えるような沈黙が続いた。
私の目測では、駅の改札まではあと400メートル、しかしこの人口密度では20分はかかる計算である。彼女の中でも似たような計算が行われていたのだろう、時折スマホの地図を確認しては、絶望的な表情でしまい直していた。額の汗は暑さのせいだけではないことが、こわばった首筋からも見て取れた。膀胱という内臓ひとつが、こうも人間の思考の全てを支配してしまうものかと、私は感測を続けながら妙な感慨を覚えていた。
5分後、彼女は急に静かになり、うつむいたまま動かなくなった。肩が小さく震え、拳を握りしめている。何かと戦うような、何かに祈るような姿勢だった。そして次の瞬間、力が抜けたように全身から緊張が消えた。足元の路面が、街灯の光で黒く光っていくのが見えた。堰を切った瞬間の静けさは、それまでの数分間の緊迫が嘘のようであった。
周囲の数名も気付いたはずだが、皆見て見ぬふりで視線を空に逃がしていた。花火の後の余韻に浸る群衆の優しさというべきか、それとも単に見て見ぬふりの作法が発動しただけか、感測者としては後者だと思う。連れが無言でカーディガンを腰に巻いてやっていたのが救いである。彼女は何も言わず、ただ小さく肩を震わせて俯いていた。羞恥と安堵が同時に押し寄せてきているのが、その背中からも伝わってくるようだった。長い緊張から解き放たれた体は、しばらく細かく震え続けていた。
花火大会の観測において、最大の見せ場は打ち上げ後の地上にあるというのが私の持論だが、本事例は気の毒さが勝った。限界というものが人からいかに冷静さと選択肢を奪うか、それを目の当たりにした夜であった。打ち上げの余韻に沸く群衆の中、たった一人だけが違う種類の解放を味わっていたのだと思うと、感測者としても複雑な気持ちにさせられる夜であった。合掌。
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