山小屋バイトで学んだ、標高2600mの女性客のトイレ事情
学生時代、夏の2ヶ月を北アルプスの山小屋で住み込みバイトをして過ごした。そこで学んだのは、標高2600mではトイレこそが最大のインフラだという事実である。うちの小屋はバイオ式で、処理能力を超えると使用停止になる。お盆のピーク時、宿泊120人に対して個室は4つ。夜間は行列が絶えなかった。
忘れられないのは、消灯後の23時頃に受付へ駆け込んできた60代の女性客である。上品な身なりの、普段は落ち着いていそうな方だった。杖代わりのストックを握る手が白くなるほど強張っていた。「お手洗いが全部ふさがっていて、もう、もう出そうなんです」と、恥を忍んだ切羽詰まった声で訴えられた。廊下の常夜灯の下、女性は前かがみで腹を押さえ、片手で壁を伝っていた。一歩ごとに立ち止まり、深く息を吐く。額には玉の汗が浮かび、白髪交じりの髪が乱れているのが痛々しかった。限界の数十メートルだった。
私は従業員用へ案内した。廊下を歩く間、女性は「ごめんなさい、ごめんなさい」と小さく繰り返しており、こちらまで緊張した。手を貸そうとすると、震える指でこちらの腕を強く掴まれた。何度も立ち止まりそうになる足を、こちらが半ば支えるようにして進んだ。あと10メートル、あと5メートル、その一歩一歩が長く感じられた。扉が閉まった直後、廊下まで響いた音については、記録しないのが礼儀であろう。
翌朝、女性はお礼にと手ぬぐいをくれた。「昨夜は人生の危機でした」と、目元を赤くしながら笑っておられた。意外と皆、山では限界まで我慢してしまう。特に女性客は遠慮が先に立つ。小屋の人間に早めに声をかければ何とかなることも多いので、遠慮なく頼っていくのがよい。あの夜の女性の声は、今でも耳の奥に残っている。夜勤明けにふと思い出しては、無事でよかったと思う出来事である。バイトを終えて何年も経つが、標高の高い場所での我慢は下界の比ではないという実感だけは今も色褪せない。あの手ぬぐいは今でも実家の引き出しにしまってある。
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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