バスツアー添乗中、トイレ休憩3分前に間に合わなかったお客様
旅行会社で添乗員も務めております。バスツアーで最も神経を使うのは行程でも食事でもなく、お手洗いの間隔でございます。特にご年配のお客様が多いコースでは、90分に1回の休憩が生命線となります。昨秋の紅葉ツアーでのことでございました。
行楽シーズンの渋滞で、予定していた道の駅への到着が40分遅れました。私はマイクで「あと10分ほどで休憩でございます」とご案内しつつ、車内の空気が徐々に張り詰めていくのを感じておりました。乗客の皆様が窓の外の渋滞を恨めしそうに見つめる中、到着3分前、後方のお席から私を手招きするお客様がいらっしゃいました。
70代とお見受けする、上品な身なりの女性のお客様でした。淡い色のカーディガンを羽織り、いつもは穏やかに景色を眺めていらっしゃる方でしたが、その日はお顔が強張っておいででした。お座席に伺うと、白髪をきれいに結った小さなお声で「ごめんなさい、少し、間に合わなかったの」と。膝の上のストールを握る手が、微かに震えておりました。
お召し物が少し濡れてしまっておりましたが、私は即座に「お任せください」とだけ申し上げました。お客様の目に涙が浮かんでいるのを見て、私は自分の胸の奥が締め付けられるような気持ちになったのを覚えております。
思い返せば、渋滞が始まってからの40分間、そのお客様は何度も座席で身じろぎをされ、隣の方に気づかれぬよう小さく膝を揺らしていらっしゃいました。休憩10分前には一度落ち着いたように見えたのですが、それは束の間で、道の駅の看板が見えた瞬間、堪えていたものが限界を迎えてしまったのだと拝察いたします。年齢を重ねると膀胱の踏ん張りも利かなくなるとよく申しますが、あの一瞬の油断がすべてを決めてしまう恐ろしさを、私はあの日まざまざと見せつけられました。道の駅到着後、他のお客様が全員降車されてから、そのお客様だけをそっとご案内し、売店で替えの衣類を一緒に選ばせていただきました。バスの座席には何事もなかったようにブランケットを掛けておきました。
ツアーの最後、お客様が「あなたがいてくれてよかった」と両手で握手してくださったこと、添乗員冥利に尽きます。あの震える手の感触は、今でも掌に残っている気がいたします。バスが出発した後、後方のお席から聞こえてきた小さな寝息に、私はようやく肩の力を抜くことができました。長年の添乗生活の中でも、あの日ほどお客様の尊厳と向き合った時間はございません。渋滞予測の精度向上を、心から業界に望む次第でございます。
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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