夫とのドライブ、峠の展望台で「お手洗いはもう探さない」と決めた日
お恥ずかしい話を、ひとつ告白いたしますね。私たち夫婦は月に二度ほど、あてのないドライブに出かけます。その日は奥多摩の峠道でした。紅葉には少し早い十月、平日の午後。出発前にコーヒーを二杯も飲んだのがそもそもの間違いだったのかもしれません。山道に入って一時間、私はお手洗いに行きたくなってしまったのですが、次の道の駅まで四十分と看板が出ております。
主人に申しますと、「展望台の駐車場に停めるから、そのへんで済ませたら」と、こともなげに言うのです。まあ、と思いました。三十四にもなって、外でなんて。けれど山道のカーブを曲がるたびに、下腹の重みが増していくのを感じておりました。膝を揃えて座り直しても、太ももの内側に自然と力が入ってしまう。あと十分、あと五分、と車窓の景色に祈るような気持ちで数えておりました。カーブのたびに車体が揺れて、そのたびに下腹に小さな衝撃が走るのです。
展望台に着いてみますと、平日の山は貸切のような静けさで、ガードレールの先には山並みが幾重にも重なっているばかり。主人は車で音楽を聴いており、見物人は鳶が一羽だけでした。私は柵の切れ目から少し下りた笹の茂みで、スカートを押さえてしゃがみました。腰を落とした瞬間、抑えていたものが一気にせり上がってきて、私は声を殺すのに一瞬苦労いたしました。膝がかすかに震えて、笹の葉が擦れる音が自分の呼吸と重なります。
風が渡って、笹がいっせいにさざめいた瞬間に、決壊いたしました。あの解放感を、なんと申し上げればよいのでしょう。山に向かって、体ごと軽くなっていくような。長く、長く続きました。谷を渡る風の音に紛れて、私はしばらく目を閉じ、体の芯から力が抜けていくのを味わっておりました。太ももを伝う温かさと、山風の冷たさが同時に肌を撫でていく感覚は、これまで経験したことのないものでした。
途中、遠くで鳥の羽ばたく音がして、はっと肩が強張りましたけれど、それだけのことでした。誰も来ない。誰にも見られていない。それが分かった瞬間、体の力がもう一段抜けていくのが分かりました。
笹を離れて茂みから出る際、足元の小石に躓きそうになり、思わず声を漏らしてしまいました。幸い誰にも聞かれてはおりませんでしたけれど、心臓はしばらく静まりませんでした。スカートの裾を整えながら、山道を戻る足取りは、来た時よりもずっと軽やかだったように思います。
笹の茂みを抜けて駐車場へ戻る間、山の空気が心なしかいつもより澄んで感じられました。木々の間から差し込む午後の光が、ちらちらと足元を照らしています。終わって車に戻り、澄ました顔で「いい景色ね」と言った私に、主任は何も聞かずに缶コーヒーをくれました。手の震えを悟られぬよう、缶を両手で包むように持ちました。温かさが指先から伝わってくるのを感じながら、私は窓の外に広がる山並みを、先ほどとは違う目で眺めておりました。以来、我が家のドライブに「トイレを探す」という項目はございません。夫婦の間に、また一つ、言葉にしない約束が増えたように思います。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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