磯場で出くわした女性ハイカーの緊急事態のこと
春の磯にメバルを狙いに入った時の話だ。あの磯は遊歩道から降りられる場所でな、ハイカーもたまに通るもんだ。わしが岩場でルアーを投げとったら、上の遊歩道から女の人が降りてきた。40くらいの、しっかりした山の格好をした人だ。帽子から少し髪が出とって、汗をかいとる様子だった。リュックの揺れ方が、なんだか急いどるように見えたのを覚えとる。
わしには気づいとらんかった。岩の陰に入って、リュックを下ろして、そわそわと辺りを見回してからズボンに手をかけたところで、わしは慌てて大きく咳払いをしたもんだ。女の人は飛び上がって、こっちを見て、耳まで真っ赤になって頭を下げた。手が小刻みに震えとったのが、遠目にも分かった。
「トイレが、なくて」と絞り出すように言う。それはそうだ。
あの遊歩道、は入口から2時間先までトイレがない。よく見れば足も小刻みに震えとって、限界が近いのは明らかだった。わしは「わしは沖しか見とらんから」とだけ言うて、背を向けて釣りを続けた。しばらくして背中で気配だけ、感じとった。衣擦れと、こらえていたものが解けていく気配だ。息を殺しとる様子まで伝わってきたもんだ。
水の音も波の音に混じって聞こえたような気もするが、聞かんかったことにしとる。終わったあと、その人はもう一度深々と頭を下げて、逃げるように登っていった。最後まで顔を上げられんかった様子だった。
咳払いをしたのが正解だったのか、黙って知らんふりが正解だったのか、今でもわからんもんだ。ただあの人の赤くなった顔と震える手だけは、妙に頭に残っとる。
あの磯にはそれから何度も入っとるが、遊歩道から人が降りてくるたびに、あの日のことを思い出してしまう。人には言えん妙な緊張感が、いまだに体のどこかに残っとるもんだ。ハイキングする人らも、あの遊歩道のトイレ不足には難儀しとるんだろうと思うと、なんとも複雑な気持ちになる。次に似たような場面に出くわしたら、今度はどうするべきか、いまだに答えは出とらん。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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