深夜の六本木からお乗せした女性のお客様が眠ってしまった夜
タクシー運転手を15年やっております。金曜の深夜、六本木で20代後半とおぼしき女性のお客様をお載せしました。かなり酔っていらして、行き先を告げるとすぐにお休みになりました。上品なワンピース姿で、疲れた仕事帰りという雰囲気の方でした。指先に上質な指輪が光っていたのを覚えております。長めの黒髪がシートに落ち、静かな寝息を立てていました。クリーニング代には定評のある店の会員カードもカバンから見えており、この方の生活の格が窺い知れました。
環七に入ったあたりで、車内に、その、独特の気配を感じました。15年の経験が、一瞬で全てを教えてくれる瞬間というのがございます。それがその時でした。ルームミラーで確認いたしますと、お客様は眠ったままで、スカートの下のシート座面に、染みが静かに広がっておりました。緩やかな波の形で、時間の経過が見て取れました。暖房の効いた車内で、事態は明らかでした。
心臓が妙な速さで打っていたのは、決してご迷惑を思ってのことだけではなかったように思います。その事実を見つめながら、ハンドルを握り続けるのは、言葉では表現しがたい感情を伴っておりました。後部座席のお客様の呼吸は相変わらず穏やかで、ご本人はまだ何もお気づきでない様子でした。股間に不安げに手を置いていた時期もあったのだろうと思われますが、深い眠りに落ちた結果が、このありようなのです。
起こすべきか、着くまで寝かせて差し上げるべきか、最後まで悩みました。社会的な立場を考えれば、目覚めた時のお恥ずかしさは相当なものでしょう。ですが同時に、このまま静寂の中で、ご本人にも、あの夜のことが夢に溶け込むような優しさもあるのではないか、と考えました。迷いながら走ったのは何キロあるでしょうか。妙な祈りを抱いておりました。どうかこのまま目を覚まされませんようにと。
結局、ご自宅の前で丁寧にお起こししたところ、お客様はご自分の状態にすぐ気づかれ、真っ青になって何度も何度も謝られました。ご自宅の鍵を開ける手が震えておられました。クリーニング代として一万円を置いていかれようとするので、規定の分だけ頂戴させていただきました。むしろお気遣いをおかけして申し訳ございません、と返したのです。
人間、誰しも限界はございます。私どもはそういう夜を何百と見てまいりました。翌朝、営業所で座席を洗いながら、あのお客様が月曜に普通の顔で出社できていることを祈りました。この仕事、意外と人の一番弱い瞬間ばかりをお載せしている気がいたします。あの夜のお客様の、真っ青になった顔と、それでも気丈に何度も謝られたお姿は、今でも鮮明に覚えております。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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