排泄物語

「どこでもいいから停めてください」と仰った女性のお客様

投稿者: 第二京浜の目2分で読めます閲覧 1,2143.2(6件)

忘れられないお客様の話です。日曜の終電後、駅前から40代の女性のお客様をお載せしました。ご自宅まで20分ほどの道のりです。落ち着いた紺のコートを召された、いかにも堅実な会社員という雰囲気の方でした。グレーのスカーフで首元を整えた上品な身のこなしで、この方の人生経験の重さが伝わってまいりました。バッグは革製で、仕事帰りというより、接待の帰りなのかもしれないと推測されました。

走り出して5分、お客様が急に「運転手さん、すみません、コンビニ寄ってもらえますか」と。お声の切迫感で、事情はすぐに察しました。バックミラー越しに見えるお客様は、すでにハンドバッグを膝の上できつく握りしめておられました。額にはうっすらと汗も浮かんでおりました。もじもじとした仕草で、膝を合わせるたびに、唇を噛み締めておられるのが見えました。

あいにくその道の1軒目のコンビニは、改装のため休業中でした。暗い店の前を通過する時の、お客様の「ああ…」という小さな呻き声は忘れられません。「次はありますか」「800メートル先にございます」「遠い…」というやり取りは、今思い出しても胃が痛くなります。800メートルというのは、普段なら瞬きする距離です。しかし後部座席のお客様にとっては、あたかも800キロのように感じられたことでしょう。

お客様は膝と膝を強く合わせ、時折小さく身をよじっておられました。信号が赤に変わるたび、後部座席から小さく「うそ…」と聞こえます。呼吸が浅く速くなっていくのが、ミラー越しにも分かりました。下腹を両手で押さえられるようになると、限界は目前です。私は法定速度の範囲で、人生で一番真剣な800メートルを運転いたしました。ハンドルを握りながら、走行のあらゆる瞬間が、お客様の救済にかかっていると感じておりました。

2軒目に滑り込んだ時、お客様はドアが開き切る前に飛び出していかれました。15分後、戻られたお客様のお顔は、憑き物が落ちたようでした。足取りも来た時とは別人のように軽やかでした。「命拾いしました」と、店で買った温かいお茶を1本くださいました。メーターは止めておりました。ああいう時に料金を載せ続けるのは、私の美学に反するのです。お客様は車内でお茶を飲みながら、何度も何度も「ありがとうございました」と仰いました。

― この話は、これにて ―

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掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。

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