客待ち中に見た、新橋ガード下の貴婦人の決断
客待ちの間、路上では色々なものを見ます。あれは平日の午前1時過ぎ、新橋のガード下で信号待ちをしていた時のことでございます。気温はすでに一桁、吐く息が白く流れる夜でした。私も暖房を強めにして、次のお客様を待っておりました。
身なりのよい60前後のご婦人が、ビルとビルの間の暗がりの前でふと立ち止まられました。遠目のシルエットからして、まず只者ではないと分かります。上質なコートに、小ぶりのハンドバッグ。髪はきちんと結い上げておられ、水商売のママか、あるいは会合帰りの奥様といった風情でございます。ヒールの高さも見慣れたものとは違い、歩みには年季の入った品がございました。タクシーを探すでもなく、あたりを見回して、電柱の陰でお足を止められたのです。
最初は気分でも悪いのかと思いました。ですがよく見ると、コートの上から下腹をそっと押さえて、内もものあたりで膝を擦り合わせるように小刻みに動いておられます。深夜の新橋、開いているお手洗いは駅の中だけ。その駅までは300メートルほどございましょう。ご婦人は一度駅の方向へ歩き出し、10歩ほどで立ち止まり、また電柱の元へ戻ってこられました。あの往復は、ご自身の限界と距離の計算だったのだと思います。二度目に戻られた時のお顔は、先ほどより青白く見えました。眉根が寄り、噛みしめた唇の端がかすかに震えているのがミラー越しにも分かりました。
それからしばらく、ご婦人はハンドバッグを両手で抱えるようにして、体を小刻みに揺すっておられました。信号が二度変わる間、私は発進のタイミングを計りながら、その姿から目を離せずにおりました。誰か通りがかりはしないか、車が来はしないか、ご婦人自身も何度も左右を確かめておいででした。あの数分は、ご本人にとって永遠のように長かったことと存じます。
やがてご婦人は、周りに人影がないのを確かめるようにゆっくりと首を巡らせ、決断されました。植え込みの陰に身を寄せ、コートの裾を片手で押さえながら、そのまま静かに腰を落とされたのです。衣擦れの音がかすかに聞こえ、それきり物音は絶えました。信号が変わりましたので、私は発進いたしました。ミラーの中に一瞬映ったご婦人のお顔は、なにか長年の緊張が解けたような、清々しいお顔をしておりました。
翌日の夕方、同じ場所を通りましたら、痕跡はきれいに清掃されておりました。都会の夜の帳尻は、誰かが黙って合わせてくれているのでございます。私はあのご婦人を軽蔑いたしません。この仕事、深夜にお客様を載せるたびに、明日は我が身と思うのでございます。あのご婦人の背筋の伸びた後ろ姿は、今でもふと思い出すことがございます。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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