290円の銭湯で見てしまった、おばあさんの間に合わなかった夜
家の風呂が壊れてるので週3で銭湯に行く。回数券だと1回290円。その銭湯での話。平日の21時すぎ、脱衣所で服を着ていたら、湯上がりの70代くらいの女性が急に立ち止まった。トイレの方を見て、それから自分の足元を見た。その動きで大体わかってしまった。間に合わなかったのだ。大きい方だった。
シャワーで流したばかりの体が、もう一度、その運命を迎えていました。彼女は声も出さず、ただ困った顔で立っていた。年配の女性特有の、その時間帯に来た切実さがありました。顔は真っ赤で、しかし誰もが他者の窮地に向き合う心理的距離を自動的に保っていました。
女性は小柄で、湯上がりの白髪をきちんとまとめて、腕に薄紫のタオルをかけていた。足元のかごには畳んだ肌着。ちゃんとした人なのだ、ということが持ち物のすべてから分かった。だからこそ、立ち尽くしたまま動けないその数十秒が長かった。彼女の耳が真っ赤だったのを覚えている。わたしは目をそらすタイミングを完全に失って、心臓だけが速くなっていた。
周りの誰も気づいてないか、気づかないふりをしていた。番台のおばちゃんだけがすぐ来て、「はいはい、大丈夫よ」と言いながらタオルと桶を持って、女性を風呂場の方へ連れて行った。手際が良すぎて、初めてじゃないんだなと思いました。このおばちゃんは、こういう場面を何度も見てきたのだ、と。床は5分で綺麗になった。誰も騒がなかった。対応の正確さと、場の静けさが、人生の重さを示していました。
わたしはその一部始終を、ドライヤーをかけるフリをしながら見ていた。人間は歳を取るとああいうことが起きる。そしてその事実は、金銭と尊厳のせめぎ合いの中でしか起こらない。銭湯という場所は、それを飲み込んで営業を続ける。290円でお湯と人生の予習ができると思えば安いのかもしれない。出来ればあの予習は無駄になってほしいけど。帰り道、夜風が妙に冷たくて、自分の足がちゃんと動くことを、すこしだけありがたいと思った。
― この話は、これにて ―
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※ 掲載されている話は、読者投稿・創作をもとにした読み物(フィクション)です。実在の人物・団体・場所とは一切関係ありません。
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